どこからが山なのか

個々の存在を表すときに考え出すと少しばかり厄介だと思う多細胞生物。

私たちヒトも、他の生物同様に多くの多種多様な細胞の複合体だ。しかしそのようなことは気にも留めず私は私だと自覚する。
デカルトの方法序説の中で提唱されている「我思う、故に我在り」という有名な命題。

私は本当は存在しないのではないか、と思うその時点でその問いの答えは同時に出ている。

今こうして指を走らせながら同時に様々なことを考えているこの意識はどこにあるのか。

既に脳の存在を認識しているからなのか、爪先で物事を考えていないことは明確に認識出来ている。やはり頭の付近に意識を感じてならない。

メディテーションのひとつにボディスキャンと呼ばれる瞑想法がある。

ボディスキャンとは読んで字の如く、身体の各部位をゆっくりとスキャン、解像していく意識行為のこと。爪先から脳天までゆっくりと観察・解像をしていく。

実施中、少し脳の存在を無視するかのような感覚に陥る。
この時に自身の存在を表す言葉に戸惑いを覚える。もしデカルトが瞑想をマスターしていたらどのような答えを導き出したのか。完全に余談だが、ドラゴンクエストで様々な経験を積み、勇者という職業に転職すると道中で瞑想を覚える。効果はほぼ全快(500ポイントの回復だっただろうか)と言えるほどの回復効果を得る。仏陀が瞑想で痛みを乗り越えた逸話がここに出てくることに深い造詣を感じる。完全回復ではないところがミソである。

脱線したが、ここからタイトルの回収を図っていく。
「山」はどこからが山なのか。明確な境界線があるわけではない。看板がたててあれば、その先から山なのかと思うかもしれないが、その看板の存在を認識せず異なる入り口とも呼べない道にもなっていないところから足を踏み入れてもそれは山だろう。

山は正確には森、木、川、水、土、砂…という風に様々な約数を持つ集合体だ。ヒトとは比べ物にならない数の多様な要素の集合体で、また厄介なのが山に意識はないことだ。(いや、あるのだろうか)
山の意識は生命体に絞ればそれこそ木であったりするだろう。しかし木は自分のことを山だと思ってはいない。利己的である。

そもそもヒトと山を対比していることが間違っている。ヒトは生命体であるのに対し、山は概念である。だが、ここにハッキリと稜線を感じずに、面としてグラデーションを探りたいエゴがある。

千本鳥居で有名な伏見稲荷大社。山道には千どころか一万基ほどの鳥居があり、その鳥居は山を神格化するシンボルとしても機能している。だがやはり山ではなくこの場合は道にフォーカスが当たっている。山という概念的存在は既に神格化されていてもおかしくはないだろう。

造形の似たものに、古墳やピラミッドが挙げられる。これらもやはり造形的な概念でありレンガ等、複数の要素の集積値が概念となり存在を示す。

多方に脱線しては戻るが、山はどこからが山なのか。それはもはや空想なのかもしれない。
ただ、「我思う、故に山在り」と決めつけることは安易で稚拙だろうか。ひとまずはここで一度寝かせるとしよう。

このように考えることで地理も積もれば何とやら。

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